おやつく日記(旧:おやつをつくるやつ)

ひまさえあえば、ていねいにくらす

誰にでも手に入れられる「幸せな”身の丈”」

 

前の記事からかなり時間が空いてしまいました。

 

 

 

原因はずっと書いていた「カヌレ日記」。頻度はさがってきたものの、昨年末ごろまで定期的に作っていたカヌレ。浮かんでくるアイデアはぜんぶ試してみたので、ブログに書くネタはあったんだけど、書く気になれず。

 

しかし、「最終回を書くまでは、次の記事に取り掛かってはいけない」、という自分にかけた呪いのせいで、書きたいことがあってもやめてました。

 

カヌレ日記はもういいわ」と開き直ったところで、ここ最近、考えているタイトルの内容について書こうと思います。

 

直接的にはお菓子作りとは関係ないですが、お菓子作りを通して浮かんだ話です。

 

 

 

 

 

記事のきっかけ

 

書くことにしたきっかけは、「食品3,400品目の一斉値上げ」、というニュースを見て。値上げする一部のリストを見たけれど、ほとんど買わないなあ、って思ったんですよね。

もちろん、わたしが普段買っているものも値上げされているので、生活に影響するんですが、3,400品目という数字のインパクトほどの衝撃は受けなかった。

 

「これをキッカケに、本当にいいものだけ買うということを真剣に考える時期かも」とは思いました。今回の話とは関係ないですが、”個の時代”といわれる令和で、大量生産・大量消費の時代がハッキリ目に見える変化として出てきたのかもしれません。個人や小さい場所でいいものを作っているひとを、小さく応援していけたらいいなと。

 

 

わたしの”身の丈”

 

さて、「身の丈に合った生活」というと、なんとなく「自分の収入に合った生活をしようね」のような、軽い”戒め”のような、窮屈なイメージがありました。それが、いまの自分の生活をしていると、「これって幸せな意味で”身の丈に合った生活”だな」って思ったのです。

 

わたしはお菓子づくりが趣味。

 

一般家庭の平均と比べると、お菓子を買う頻度は少ないです。とはいえ、塩味系のお菓子は作らないので、大好きなポテチは買います。あと、気が向いたときしかお菓子を作らないので、気分が乗らないときは甘いお菓子も買います。

 

ただし、そこで買うのはケーキとかシュークリームの生菓子や、自分の専門外のチョコレート菓子など。スーパーだったり、専門店だったり、その時々で「これ!」って思ったものを選びます。

 

でもクッキーやパウンドケーキはほぼ買いません。

 

なぜなら、いまのわたしにとってクッキーやパウンドケーキは、昼ご飯のチャーハンみたいなものだから(チャーハンについては、若かりし頃にハマって自主練に励んでいたので、そこそこ自信アリ)。家にある材料でぱぱっと作って、それなりのクオリティを出せます。

 

お菓子作り歴も長いし、材料もそれなりにこだわっているので、もし自作のお菓子を外で買ったらそれなりの値段がするはず。それが、手作りなら材料費+αのみ。市販のお菓子より安い値段で、お店レベルの味が手に入ります。

 

 

やりたいから、やってる

 

これはわたしがお菓子作りや料理が好きだから、そして、こだわりたいタイプだからできること。別にコスパを考えてる訳ではありません。食べたいものがあれば、たまに市販品や専門店でも買いますが、心や時間に余裕があるときは「わたしの方がおいしい」、あるいは「作ってみたい」という好奇心で自作します。

 

ここでは「やりたいからやっている。その結果、コスパがいいだけ」というのがポイント。

 

市販のお菓子が好きならそれもアリ。ケーキ屋さんで買いたいならそれもアリ。食べたいケーキ屋さんは高いからいつも買えない、というのであれば、ほんとうに毎回高いケーキを買いたいのか、安くておいしいケーキ屋さんが意外と近くにあるかも。とか、欲望に忠実になって探せば、何かしら自分にあった自分の満たし方はあると思います。

 

 

稼いだ分、使うことも”身の丈”

 

子どものころからお菓子づくりは好きでしたが、10代後半から30歳くらいまで、勉強や仕事、遊びの方が忙しくて、意外と10年以上ブランクがあります。当時はお菓子づくりの「お」の字も出てこないほど、別のことに夢中。特に20代は、お菓子よりお酒、自炊より外食が日常で、いまとはかけ離れた不摂生な生活をしていました。

 

サラリーマンをしていると、よくも悪くもストレスが大きいので食べ物の好みも変わります。歳で変わるというのもあるかもしれません。ついこないだまで、今ではあまり食べない、こってりしたラーメンとか大好物でした。

 

当時、お菓子を買った記憶があまりないのは、お酒で糖分をとっていたせいで、身体がお菓子を欲さなかったのだと思います。

 

学生時代はお小遣いだったりバイト代しかなかったけれど、当時の自分が興味のあった買い物は食べ物もファッションも娯楽も不自由なくやっていましたし、多少は料理をする余裕もありました。

 

サラリーマン時代は仕事が趣味みたいなものだったので、仕事以外で頭を使うことはしませんでした。食へのこだわりも薄く、うどんが好きだったので毎日うどんとスーパーのお惣菜でも幸せだったし、その他の栄養は社食と居酒屋で取ってましたね。

 

外食だとお金はかかるけれど、ここで「食材にこだわっておいしい料理を作ろう」なんてやっちゃうと、それこそストレス。

 

そんな日々を送っていたわたしは、仕事にリソースを割いて、そこでもらった給料を、時間的・能力的に自分ができないことに使っていました。

 

 

環境や考え方次第の丈

 

サラリーマンをやめて在宅勤務とかフリーをやってみると、「どうせ家なんだから、ちょっとでもおいしいものが食べたい」という欲が出てきました。お菓子作りも料理もブランクはありましたが、自分のためなら頑張れます。

 

ラーメンを例にわたしの進化を書いてみると、

「そのままのカップ麺も好きだけど、冷蔵庫にあるネギと生姜を入れてみよう」

「袋めんの方が好きかも」と鍋でつくる袋めんへ。

「スープや具材は自分でアレンジするから、麺にこだわりたい」と棒ラーメンへ。野菜やキムチ、薬味やスパイス、調味料でアレンジ。

「麺も手作りできたら最高じゃん」と、手打ち麺のレシピを検索。まだ作ってませんが。

 

進化するごとに、味が良くなり栄養価も高くなっています。いまでも普通にカップ麺を食べるし、何もアレンジしない時もありますが、確実に選択肢は増えました。その代わりに必要になってくるのは「時間」。こればっかりは、家にいる時間が長くないとできません。(「技術」は後からついてくるので、だいじょうぶ)

 

いま現在、サラリーマン時代より回すお金は減っていますが、食生活は相変わらず豊かです。

 

サラリーマンの時は、新しい店を開拓する喜びがあったり、家では作れないおいしい料理を友達と楽しく食べる喜びがありました。

 

それが今は、新しい料理に挑戦する楽しさと、良いものをおいしく食べたり、人に振舞った時においしそうに食べてくれる姿が喜びに変わりました。環境によって、楽しみ・喜びの種類が変わって、そこで回すものも変わったということ。みんなちがって、みんないい、ってことです。

 

 

丈は変わり続ける

 

最近では、料理以外でも編み物にハマったり、手作りのお茶を作ったり、化粧水や入浴剤を原材料に近いものからオリジナルブレンドをしたり。たぶん、わたしの性質として手仕事が好きなんだと思います。

 

ただ、これは「今のわたしにとって良い状況」にすぎません。

 

「お菓子づくり、料理が趣味」「手仕事が好き」というと、いかにもイマっぽいし「豊かな暮らし」の代名詞のようだけれど、特別、これが素晴らしいとも思っていません。好きだからやってるだけ。

 

 

若かりし頃の暴飲暴食ではっちゃけていた頃だって悪くない。「社会貢献のため」「自己実現のため」と鼻息荒く仕事して、その反動で飲みすぎるのだって、当時のわたしにとっては楽しかったし、必要なことでした。たとえ、20代半ばの健康診断で、”ガンマなんちゃら値”に警告が出ていてもね。

 

そこで稼いだお金をじゃんじゃん使うことで経済を回していたんだし、自分が仕事で携わっているサービスは、世界のどこかの誰かに役に立っている。それに関わることは誇るべきことだもの。

 

一番最近まで働いていた会社では、いまの生活と若い頃の生活の真ん中みたいな感じでした。残業少な目だったし、若い頃のように退社後に遊びまわったりすることもなくなり、一方で少しずつ「自分のこだわりを大事にしたい」という思いも出てきた。

 

今でもたまにコッテリラーメンを欲する時もあるけれど、体質も少しずつ変化してる、って感じでした。一番稼いでいて、一番使っていた時期から、いま稼いでなくて、あまり使っていないという、まさに中間時期。

 

他人やサービスを介さないと、回すお金は出るのも入るのも減る、けれど、自分がイチから携わり知恵という財産は蓄積される。

いまこうしてブログを書いているのは、その知恵があったから。お金という分かりやすい指標がなくても、生きている限りはどこかで何かを回しているはず。

 

 

自然にしていれば勝手に合う

 

こういう経験をふまえて、自然にしていれば、どんな人でも勝手に「身の丈にあった生活」になるのではないか? と思いました。

 

 

【 昔 】

サラリーマンとしての仕事に熱中。稼ぐことはできるけど、手仕事どころか、料理すらほとんどせず外食多め。精神的な浮き沈み(健康も)は激しかったけれど、刺激的な日々は楽しかった。

 

【 いま 】

手仕事にハマる。なんでも自分で創ってみたい。こだわるので良質。お金の回り方は小さいけれど、自分でつくったものは外で買うとけっこう高いだろう(と思ってる)。知恵をこうやって発信することもできる。

 

むかしといまを比べると、それぞれの環境や興味にあわせて「身の丈にあった生活」してるよなあ、って思いました。

 

一般的にいわれる「身の丈に合って”いない”生活」というと、「お給料が少ないのに、贅沢なものを買っている」というものでしょうか。

 

わたしの考えかたでいうと、心から欲しいものなら「それを稼げるだけの能力がある」と思う。

 

たとえばですが、わたしはお菓子や料理について、商品化・サービス化していません。やろうとしたこともあるのですが、自分のやりたい形が思いつかないので今は保留。でも、その気にさえなれば、「お店を持つ」とか「料理教室をする」とか、自分の能力を使ってサービスを提供することは可能です。

 

趣味が仕事になると、お金を得ると同時に、それにかかる経費も出てきます。ここでお金の循環が大きくなるんですよね。その代わり、「こだわり」っていうのは減るでしょう。もちろん、お金を稼いだらこだわるのは無理、ということはないですが、今までと違うことも考えなきゃならないので、まったく同じとはいかない。

 

だから、自分が何をやりたいのか、というのが大事。

 

極端な話、本を出してメディアに出まくり、プロデュースもしちゃう人気料理研究家にもなれるし、ごく一部のご近所さんにおすそわけするだけの、お菓子作りを極めた一般人にもなれる。人気だから能力が高くて、無名だから低いってこともない。

 

実は現状に満足しておらず、「もっと自分のことに集中したい」という人気料理研究家だったら、露出を控えればいいし、「もっと発信したい」という一般人なら、お店を持つとかSNSを始めたらいい。

 

 

合ってないなら、何かがおかしい

 

「本当はやりたいことがあるのに」「本当は買いたいものがあるのに」それができないなら、何かがズレている。

 

身の丈にあっていないのに、高級なものがほしい。

というときは、ストレスとか、他人の目を気にしているかもしれません。他人の目ではなくても、「〇〇なら、△△すべき」という常識っぽいものに流されているかもしれません。現時点の”身の丈”より少し背伸びをするのは、いいとおもうんですよね。幼少期は恵まれていなくても成功した人は、そういうことをしているはず。

 

逆にいうと、ガンガン仕事を回しているのに、使っていないお金があったり、本当は自分でじっくり取り組みたいことがあるのに時間がない、という人もある意味では身の丈にあってない、といえます。

 

もし、わたしがお菓子づくりについて何かしらサービス化しようとしたら、そこに割くリソースが増えるので、今と同じレベルでこだわりのお菓子は作らないでしょう。それが悪いということもなく、自分の興味の矛先が変わっただけ。

 

実際、サービス化とはちょっと違いますが、同じお菓子づくりでも、数年前の自分とは興味の矛先が変わっているのを感じます。一時は菜種油のお菓子にハマっていたのですが、今はバターのお菓子を作ることも増えたし、アレンジしてハイブリッド型も作ってます。毎日のように作っていた日もあれば、違うことがやりたくなって長期間休むこともあります。

 

いままた飽きてきたので、新しいことをやってみたい気持ちが大きくなっています。もう少し何かを拡大させたい、という漠然とした思いがあるので、きっとそれはできるはず。

 

自分自身と連動した、”身の丈”を探っていきたいものです。